2013年4月29日月曜日

【叙勲】台湾の元海軍工廠少年工の李雪峰さん(86)、旭日小綬章を受章…帰国後も同窓会を作り日台の交流に寄与


1 :きのこ記者φ ★:2013/04/29(月) 09:47:44.59 ID:???0

春の叙勲では台湾から3人が選ばれた。国・地域別でみると3季連続で米国に次ぐ2位で、
日台関係の緊密さの象徴ともいえそうだ。

3人のうち、旭日小綬章に選ばれた李雪峰・台湾高座(こうざ)台日交流協会理事長(86)は、
戦時中、神奈川県の高座海軍工廠(しょう)などで戦闘機生産に携わった元勤労学生。

当時、台湾から青少年多数が志願していたが、終戦後、李さんは少年工ら約8500人の帰台の船便確保に尽力した。
帰台後は同窓会組織を立ちあげ、日台間の相互理解に寄与した。

5月9日には同窓会の総称「台湾高座会」の記念大会が神奈川県で開催される予定。
偶然同じ船で帰台した李登輝元総統らとともに招待を受けた李雪峰さんは
「活動は今秋までのつもりだが、日台の交流は次代に残したい」と話している。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130429/chn13042908140003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/images/news/130429/chn13042908140003-p1.jpg



5 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 09:50:50.31 ID:SKwMsChw0

戦時中、神奈川県の高座海軍工廠(しょう)などで戦闘機生産に携わった元勤労学生

<`∀´>だと
強制連行されたニダ謝罪と賠償 となる



8 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 09:52:31.18 ID:0N/9XTpb0

旧日本軍同士の軍人さんの交流って日韓でもありそうなもんだけどな
その辺が見えないのが不思議



13 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 09:53:03.33 ID:yBfm+v8C0

画像見ると、死んだ爺ちゃん思い出して涙が出る。

何やら詳しく書いてあるサイト。

http://blogs.yahoo.co.jp/kim123hiro/61128474.html



19 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 09:55:24.36 ID:Eex+Kie60

パククネの親父さん、日本陸軍の左官か将官だったし、日本から多額の援助引き出してるし、裏であったはずだよ。親日罪のおかげで、見えないだけだと思う。



20 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 09:55:34.99 ID:cqik4PCI0

結局、フジデモにしても、アベノミクスの成功にしてもネトウヨとやらの言ってたことが正しかったからなあ
ネトウヨという自分より格下だと思ってた連中が、現実には社会的ステータスもそれなりにあって、
行動力もあって、しかも実は言ってることも正論だったなんてなあ。
それに引きかえ、在日や中道気取りのオツム花畑の奴らは
円高デフレ容認の件にしろ、いつものように日本の足を引っ張るだけだったからなあ

ネトウヨという単語を好んで使うような奴は逆に完全な負け犬になっちゃったんで
悔しくてしょうがないみたいだよ



26 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 09:57:38.90 ID:3gJFuWYL0

【共同通信】「稲田行革相が靖国神社を参拝、中国・韓国の反発は必至」[04/28]
>>
日本海軍の撃墜王・西沢広義中尉
 日本陸海軍中最高の撃墜数を八七機を誇る撃墜王である。台南航空隊、後に二五一航空隊などで活躍したエースである。ラバウルでの激戦にも勝ち抜き、昭和十九年十月フィリピンで第一神風特別攻撃隊
、関行男大尉指揮する敷島隊の誘導護衛機として戦果確認した後、特攻隊に自機を引き渡し、陸攻で基地に帰還するとき、敵戦闘機に襲われ還らぬ人となったのであるが、さぞ無念であったろう。戦闘機にさえ乗っていれば、
このようなことは彼に限っては無かったと思われる。
日本人を祭る廟
 あちらこちらの廟や祠に「日本人」が静かに祭られている地など、日本を除けば世界で台湾をおいて他にあるまい。



29 :名無しさん@13周年:2013/04/29(月) 10:01:12.09 ID:3gJFuWYL0

【日台】李登輝元総統(90)、旧海軍工場の式典出席に台湾から5月来日へ[04/11]
◆解説◆
  高座海軍工廠は、座間市から海老名市にかけての敷地に1943年に設置された飛行機工場。戦闘機「雷電」などを生産した。
当時の労働力不足のため、台湾から15−19歳の少年が「少年工」として募集された。少年らは、5年後に上級学校の卒業資格がもらえ、
台湾に帰れば技術者として就職できるとの条件に魅力を感じて募集したとされる。
  台湾少年工の総数は約8000人。来日後は、日本語、神社参拝などを含めた日本の習慣になじむ訓練が徹底的に行われた。
また日本の寒さと食糧不足は少年らを苦しめた。米軍の空襲などで死亡する少年もいた。
  日本の敗戦にともない、台湾少年工は自治組織を設立し、警備など各種業務を行った。
年長者の統率に従い、整然と集団生活を継続したという。帰国が始まったのは1946年1月。一部に残留者がいたが、大部分が台湾に戻った。(


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